昭和42年03月21日 夜の御理解



 今日は、親教会の春の霊祭がございましたから、私共親子3人でおかげを頂きました。後のご直会の席で、総代の岸先生が、この頃奉斎式におかげを頂いて、もう本当に感激をしましたと。あれだけの信者さん方が、もうみんな一生懸命であの奉斎式を奉仕しておられたという事に、非常にまぁ、こんな奉斎式は前代未聞であろうというて。それはお世辞じゃない。本当にそう言う様な気持ちであったと思うんです。
 そういうふうに、今日言うておられましたがその中にあの時に、大坪先生がここ合楽の地に、ここのお広前が忽然として出来たという言葉が、素晴らしかったと言うておられました。ここ合楽の地に確かに成程年限こそ二年間かかりましたけれども。私にしては本当に、何か夢のような感じです。ここにとても、ここの今度の新聞に久富繁雄さんが書いておられますように。
 本当にあちらのお土を運ばして頂くのでも、本当に何と言うでしょうか。神聖な泥とでも言いましょうか。あれがちょうど、二山ここには入っております。普通から言うなら、ここには、家でも建てられるという場じゃなかった。そこにこうやって、埋め立てがあり、そして御建設になり。そして二年間の年月を費やして、ここに見事なお広前が建立された。本当に、この忽然として、成程。
 ここにお広前が出来たという感じが、もう一番ぴったり、私はするのです。そういうようなことを、岸先生の口から聞かして頂きながらです。私は思うたんですけれどもね。確かに、成程、ここは、忽然として出来たんだという程に不思議なぐらいです。ですから、これは、又、忽然として、ここは消える可能性を、どこよりも強くもっておるということなんです。いつの間に消えたか分からんようにして。
 忽然として、又、消える可能性を、どこよりも強いんです。これは人間の営みというものが、いかに、はかないものかと。命だって、今日あって明日あるやらないやら保証は出来ないのである。あら、咋日までは、あんなに強く、ピンピンしておられたのに、亡くなられたちやと言ったような事が、よくございますでしょうが。本当に、あちらの、お城のようなお家じゃったけれども。
 一晩の内に灰になってしもうたと言ったような事がです。世間には、有りがちでございます。ですからそれは、一般でもやはり、そんなことは言えるんですけれども。ここの場合は、特にそれが、私は、強い可能性をもっておると。本当に神様のおかげで出来たんですから。神様が取り上げようとなさったら、あっと言う間に取り上げなさるに違いないと言う可能性を強くもっておるということなんです。
 忽然として出来たんだ。又忽然として消える可能性が一番ここの評判は強い。そこで私共はこのお広前をです。私共はなるほど見事立派とこう言うけれどもです、神様が下さるということになれば、もっともっと立派なもっともっと広い大きな、沢山な信者が取り次ぎ助けられてくるようになって、やっぱりここが狭もうなったといやまた広めなきゃ仕方がない。そこには又神様の働きがありますでしょうけれどもです。
 いよいよ、そうした末広がりの一年勝り代勝りのおかげを頂いていかなならんけれども、これは分からんことである。そこで、私共がそういうおかげを頂いて、いよいよ、頂いていくために、どのような信心をさして頂いたらよいか。どのような生き方にならして頂いたら良いであろうかと言うことなんです。今日、善導寺から帰らして頂きましたら、もう夕方でございましたが。裏の方から、けたたましい。
 その子供どんが何かとごえよるとじゃろうかと思うて、あんまりけたたましゅう言いよるですから参りましたら。長男と長女がやりやりその言い合いをやってから、ちょっと落ち着いておるところでございました。どうして悪さで済まんごたる風でまたあちらの、テレビのあるあちらに行ってから家内が私を、ごりごり引っ張って行ってから私は子供のそういうことにはいっもかまわん、構わんと言うよりもです。
 こりゃもう、結局、その、人の不行状を見て、わが身の不行状になる事と仰るのですから。子供達に本当に、もう本当に身を削られるような思いをする時にはです。本気で自分の身を、本当に、削ったら良いのである。改まっていったらよいのである。見苦しいところが見える時には、自分の心の中に見苦しいものを発見するときなんだから。それを私自身が、とやこう言う資格はないと私は。
 けども家内が私の手を引っ張って、とにかくあなたがどうも言いなさらんけん。あなたがとにかく、どうかその言って下さいと言うてから、私をごりごり引っ張って行ってあそこに押し込めましてから、仕方なしに言ったんですけれども。話を聞いてみれば聞いてみるほどです。長女はあんた、ここの二代として若先生としてです。そういうことで良いか。お前はどうかと。
 お前はどうかと言う訳でお互いの、いうならば足の取り合いのような事ですけれども。お互いに、より良い教会人として、より良いご信者さん方が、成程と合点されることの為にです。やっぱりそれが実行して、言わば掴み合いせんばかりの事になっておる訳なんです。実を言うとだから有り難いことなんです。そるけど私引っ返して行って、家内に申しました。どうも言うことを聞かんと、こう言うからですね。
 ああいう姿を見た時には、もう自分の、自分自身の親の姿を、自分で見るより外はないばい、お母さんと。見るとね、結局、子供達が悪いのじゃない、私共が悪い、親が悪いのだという事になるのだから、お詫びするより外はないばいと言うて、今日は、家内もその事を、本当にそうだなと言う様な、初めてああ言う受け方をしてくれて、私は、有り難いと思うたんですけれども。
 先程、その事について、お礼を申さして頂きましたらね。孝行の「孝」という字を頂くんです。はぁ私は、ここには気が付かなかった。これは親不孝もんどころじゃない、本当に親孝行だと言う事なんです。物の受け方、頂き方と言うものはですね。そういう受け方をしていかなければいけんのです。例えば、一つの事でもです。一つの難儀なら難儀と言う問題をです。困ったなら困ったと言う問題をです。
 受け方で、それがおかげにもなりゃ、受け方でおかげを落とす事にもなってくるのです。成程、そういう、言わば、不行状を見て、自分の身の不行状になることと仰るから、自分がいよいよ反省していく、そしてお詫びをしていくだけではなくてです。お礼を申し上げなければならない事。なぜ、その親の言う事を聞かなかったり、思いに反した事になっていくかと言うような頂き方ではなくてです。
 こうして親を改まらしてくれる、研かしてくれるんだと言うのですから、親孝行なんです。どんなに不祥な子があっても、どんなに言う事を開かん子があっても。世に言う、家の息子は不良で困ると言うてもです。それが、困ると言っておったんでは、やはり困る事になるんです。けども私が今申しますような頂き方なんですね。本当にこの子が、私共の信心を、いよいよ、より立派なものにしてくれる。
 より改まらしてくれる。このことによって子供が私を研かしてくれるという事になる時に、その子は私にとって切実なる親孝行の子だという事になるのですから。神様有難う御座いますと言うて、お礼を申し上げる以外にない事になってくる。お詫びをすること以外にはない。お礼を申し上げること以外にないのである。事毎にですそう言う様な受け方、頂き方というものがです。私はいよいよおかげの頂けれる。
 なるほど、この方の道は、喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はさせんと、教祖は、言わば、私共に約束しておられるのでございますから。けども、このことばっかりは、喜びでは受けられない。このことばっかりは残念なことだ、歯痒いことだと言うようなことでもです。自分の心が、ひとたび、神様に向い、信心に向こうた時です。本当に神様、ありがとうございます。子供達に言うだんじゃありません。
 私共があい至りませんからと言うて、お詫びをするより外にはない。そしていよいよ、そこんところのお詫びさして頂きよるとです、今度はお礼を申し上げるより他にはない。こうして、親、私自身を、私共を研かして下さるんですという事のお礼になって、これは親不孝者どころではない。親孝行者として頂く事にになってくる時に。その子が親孝行な子にならん筈がないです。
 どんなに親不孝な子でも、そういう親孝行な子として受ける。本当に親に孝行してくれるという受け方になってくる時です。親孝行な子にその子がならん筈は絶対にない事をです。私は、今までの体験からも、私は今日改まらして頂いたことからでも、ここにはこういう頂き方があったという事を何かいつも言うており、聞かして頂いておるんですけれども。新しいひとつの発見をしたような気がするのでございます。
 そういう、私は、頂き方の中にはです、喜びでは苦労はさせんと仰る。いよいよ忽然と出来たものが、忽然と消えるではなくて。その、忽然と現れたものがです。いよいよ年勝り、代勝りにです。それがおかげの裏付けとなり、その忽然と出来た空虚な感じの中にです、充実した中身というものが、信心というものが詰め込まれていく時にです、それはいよいよ、まあ大きく言うなら万国へとでも言いましょうか。
 いわゆる親の代より子の代、子の代よりも孫の代ひ孫の代というようにです、私はおかげを頂くことを実感致します。今日はお風呂が遅く沸きました。あまり早よう沸かしても勿体ない。もう3人ずつでも4人ずつでも入られる。ですからまず男の分が入って私は入らせて頂きましたら。父と勝彦と光昭が3人で入っとりました。そこへ私が入って参りましたからちょうど親、子孫が同じ風呂に入っとるという事になります。
 子供達が上がりました後で、お風呂の中で、その事をお礼を申させて頂きよりましたら。親、子、孫と本当に極楽が続いていくようなおかげという意味のことを、私の心に感じるのです。お風呂と言えば、極楽と言うこと。しかも親と子と孫がです。そしていやそれが、ひ孫に、又、その次の子にです。その極楽の世界を、いわば、受け渡していけれるという信心をです。ここ以外にはないばい。
 信心はここを頂く以外にはないよ。喜びで開けた通じゃから、喜びでは苦労はさせんと仰るが。本当に喜ばなければならない真実と言うものをです。私共は、分からせて貰い。事の事態の、本当のことを分からせて貰い。本当の神様の思いを、その事の中から分からせて貰うというような頂き方からです。必ず、それが、いよいよ、繁盛のおかげになって行くだろう。
 もう私は、本当に、おかげを頂いて行くのは、この手よりほかにないと思うんですよ。困った事もない、難儀な事もない、どうした分からん子供じゃろうかと言うことはない。その事によって、改らせて貰い。その事によってです、お礼を申させて頂けるような信心を、いよいよ、身に付けていかなければならんというふうに感じたんです。
   どうぞ。